虚数パンのお話

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ある夜の無意味な美しさ

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もう2年ほど前になる。

私はある女を待っていた。

 

若く我儘な女で、おそらく世間で言う所の少し不埒な関係であったのかもしれない。

クリスマスの足音が近づき、世の中が色めき立つ中、私は汚れた札幌の地下鉄のホームで、女の返信を待った。

 

返事が来るまでの間、少し店で休むことにした。

小腹が空いていることに気付き、すすきののマクドナルドへ踏み入る。

 

混み入る店内の雑踏をかき分け、安くてペタンコのハンバーガーとホットコーヒーを手に、私は2階に向かう。

 

氷水を紙コップに注ぐと、窓際の適当な席につく。

眼下に広がる雪景色と、窓ガラスに反射する光の帯。

聞き慣れた騒がしい広告の音。

私は誰よりも孤独な気になって、早いペースでコーヒーをすすった。

それほどくつろいでいる時間はない。

 

そんな時、ふと隣の席に女が座った。

黄色い着ぐるみを着た、まだ幼さの残る、髪の茶色い女。

頭は着ぐるみのパーカーを被っていて、何か催し物にでも雇われているのだろう。

そんな格好だから、女はこのフロアの誰よりも目立っていた。

 

私は女の格好が気になって、幾度か視線を左に向けた。

女は携帯を取り出し、疲れた顔で文字をしきりに打ち込んでいた。

 

っと。

時間だ。

 

私は我に返って、飲みかけのコーヒーを処分した後、

足早に店を出た。

それにしても、今夜はとりわけ寒い。

 

 

 

ーーー。

結局、約束の女は来なかった。

別に良いさ。

内心ほっとしている自分がいた。

しかしせっかく町の中心部まで来たのだから、本でも買って帰ろうか。

地下鉄を出て、私は再び凍える地上に戻った。

 

本屋に行く途中、先ほど隣に座っていた黄色い着ぐるみの女が反対側から通り過ぎていった。

その瞬間、なぜか私の視界がスローモーションになる。

 

女は笑って私の後ろ側の誰かに手を振っていた。

友達にでも出会ったのだろう。

こんな笑い方をするのだな。

無邪気な笑顔だな。

女が通り過ぎた後、私は後ろは振り返らなかった。

振り返る必要などないのだから。

 

 

 

時折、この無意味な一夜の出来事を思い出す。

物語としては成立し得ない、あまりに無意味な美しい夜だった。

 

もうあれから2年だ。

 

 

組織はいつだって不合理 - 私たちが疲れる理由

1. 組織と個人

この国の大半の人々は何らかの「組織」に属して働いています。

 

組織は人々の能力をつなぎ合わせ、より合理的な結果をもたらしますが、時に全体として不合理な振る舞いを見せ、個人を蔑ろにすることもあります。

 

一般的に見て、個人が組織に属することによるメリット、デメリットの感じ方には非対称性があるようです。

 

企業の利益や保険料など、煩雑な事務作業を組織が受け持ってくれることについて私たちは無頓着であり、また、組織の業績が個人に還元されにくいことに対し、タテ割りの事務によグループ同士の軋轢や上司の管理能力の問題など関しては、私たちはひどく敏感だからです。

 

この感じ方の非対称性が私たちの「組織疲れ」を助長させていきます。

 

・上司は部下の何をみているのか... 

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また、組織を維持するため「だけ」に行われる社員旅行や飲み会などの行事が私たちのプライベートな時間を奪います。

 

そしてお金を払って聞かされるのは上司のお説教や仕事の愚痴ばかりとくれば、私たちは疲弊するばかりです。

 

ここで一度、私たちを疲弊させる組織の不合理についてまとめてみましょう。

 

 

2. 何が私たちを疲れさせるのか

組織を不合理にするものの多くは、組織そのものを維持するために払うコストの中に見出されます。

 

例えば、以下のようなものがあげられます。

 (1)グループ間での仕事の押し付け合い

 (2)煩雑な決済システム(稟議制による合意形成の長時間化)

 (3)組織内での根回し

 (4)「親睦を深めあう」ための飲み会や社員旅行

 (5)無意味な会議

では、1つずつ見ていきましょう。

 

(1)グループ間での仕事の押し付け合い

ある程度大きな組織になると、組織はグループごとに専門性を持たせようと試みます。経理、営業、開発、etc...。

 

これによりそれぞれのグループは専門領域に集中できるというメリットがありますが、同時に線引きの曖昧な仕事やイレギュラーな業務について、各グループ間で水面下の押し付け合いが始まります。

 

個人は自分の属するグループの業務以外に無関心になり、俯瞰でものを見るバランス感覚が失われていきます。

 

(2)煩雑な決済システム(稟議制による合意形成の長時間化)

 日本特有の稟議制というシステムによって、社内の合意形成は非常に長期的で煩雑なものになっています。

 

末端の社員は、決済を用意して、上司に説明して、ハンコをもらって...。その途中に誤りがあれば、差し替え作業や内容の修正を報告しなければなりません。

 

一度で決裁権者の了解を得られればどんなに楽でしょうか。

 

稟議制は組織の合意形成と決定を慎重に行うために用いられるシステムですが、合意の長期化や責任者が不明瞭になりやすいという点で、非常に問題のあるシステムです。

 

(3)組織内での根回し

 「根回し」と聞くと国政を思い浮かべるかもしれませんが、あなたの会社でもごく普通に行われているのではないでしょうか。

 

たとえば、ある決定をする際に上司や重役に前もって合意を得ておくための「おことづけ」です。

 

後で上司と担当の間に齟齬があっては困るため、このような行為を頻繁に行う組織もあります。

 

この作業の煩雑なところは、一つ上の上司へ根回しをする際、「ワンペーパーでまとめろ」といった資料の作成や整理を求められるところです。

 

また、基本的には担当レベルから係長等を通して上司へ報告がされるため、担当が異なる上司へ何度も同じ説明をするなど、非効率な作業を求められることも少なくありません。

 

・根回しという名の伝言ゲーム

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(4)「親睦を深めあう」ための飲み会や社員旅行

飲み会や社員旅行は社員の親睦を深めるために当然行われるべきだ、そう考えている上司があなたの周りにもいませんか。

 

この根強い思想は、「仕事は人間関係で決まる」という確固たる信念に基づいて生まれるものです。

 

人間関係を醸成するというと聞こえは良いですが、大抵は上司の憂さ晴らしの場となっているのが現状です。

 

部下へのお説教やセクハラまがいの言動など、部下は上司に接待をする羽目になる訳ですから、「親睦を深める」などというのはあまりにも戯言に思えてしまいます。

 

・家族に相手してもらえないのかしら...

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(5)無意味な会議

「一体何のためにこんな会議開いてるんだろう」と思ったことはありませんか。

 

大きな組織になるほど、私たちは無駄な会議に付き合わされます。

 

実際はすべて根回しにより決定されている会議、ただ最終合意を得るためだけに行われる会議です。

 

そしてこのような会議のために、末端の職員は膨大な資料を作成しなければなりません。

 

合意形成の場であるはずの会議が限りなく形骸化され、無意味ともいえる資料作りに一日を費やすことは、末端社員が払っている明らかな維持コストなのです。

 

3. コストの支払請求書は末端社員に届く

これまで見てきたように、組織を維持するために必要(?)なコストを払う者は、ほとんどの場合末端の社員なのです。

 

無駄な資料を一夜漬けで作ること、飲み会で上司におべっかをつかうこと、これらはあなたの上司はやってくれません。

 

会社の維持コストの支払請求書は、いつでも末端社員に届くようになっています。

 

この事実が悲劇的である理由は、これらの無駄とも思える作業はほとんど個人の能力の向上に役立たないからです。

 

ただつまらなく、ただ煩雑な作業を終えた後に残るものは、雀の涙ほどの残業代だけです。

 

4. これからの組織との向き合い方

「組織疲れ」は組織の不合理を目の当たりにすること、そして組織の維持コストを払わされることで蓄積されるものです。

 

私たちはこれからも、この不合理を甘んじて受け入れなければならないのでしょうか。

 

残念ながら、大きな組織はそう簡単にあなたの望む方向に変わってはくれません。組織が古臭い伝統を継承し続け、これからもあなたを苦しめ続けない保証はないのです。

 

転職、フリーになるなど、組織を離れる方法は安易に提示することはできても、実際はそう簡単な話でもありません。

 

しかし、悪しき伝統は私たちに降りかかってくるとしても、それを自分たちの世代で止めることはできます。

 

私たちの後輩が私たちの上司のようにならないために、組織の業務に対して常に批判的な目線を持つことを忘れてはいけません。

21世紀の身体性 ー Instagram(化粧)からVTuber(転生)へ

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人類の歴史は、身体の歴史であるとも言えます。

身体は美や権威の表象のために、歴史上もっとも古いカンバスとして機能してきたのです。

 

その手法は「化粧」と呼ばれ、有史以前から、ある社会における身体を価値づける向社会的な行為として、人々に営まれてきました。

 

今回はこの「化粧」という手法がいかに現代のテクノロジーによって拡張されつつあるのかについて確認するとともに、その限界とそれを越境する現象としての「Vtuber」ムーブメントに焦点を当て、有史以前から続く身体性のブレイクスルーが今まさに起こりつつあるということを論じてみようと思います。

 

 

目次

1.「化粧」ー身体の拡張とその限界

2.デジタルな化粧ーInstagramPhotoshopの文化史

3.「化粧」から「転生」へー身体は転生する

 4.   欲望への「接近」から「完成」へ

 5.   「表象からの撤退」ー「現象」としてのVTuber

 6.21世紀の身体性ー身体と自己の断絶と「再」接続

 

 

 

1.「化粧」ー身体の拡張とその限界

美や権威を得るためにもっとも知られた身体の改造方法は「化粧」です。

 

古代エジプト時代のネフェルティティの胸像に引かれたラピスラズリのアイラインや、アボリジニのボディペインティングは、化粧という手法が現代先進国特有の儀礼ではないということを示しています。

 

歴史学、人類学、その他膨大なカルチュラル・スタディーズは、人類史における「化粧」という営みがいかに通時的、共時的に普遍的かということを示しているのです。

 

「化粧」は宗教的な祭事、正統性の誇示、モードへの服従セクシュアリティの強調、他者との差別化のために必要不可欠なツールとして、我々に必要なものでした。

人類の生老病死に纏わりつく一つの儀礼として、長い変遷を現代まで遂げてきたのです。

 

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しかしまた、これらの営みが普遍的であることに起因し、これらを根本から刷新しようとするテクノロジーが我々現代社会を覆っていることもまた、周知の事実です。

 

テクノロジーは人類のこの「化粧」という営みをより過剰に社会的な行為として再構築させ、より複雑な欲望の発露と達成へと向かわせているのです。

 

 

2.デジタルな化粧ーInstagramPhotoshopの文化史

 マーシャル・マクルーハン(1911-1980)はカナダ出身のメディア論の先駆者です。

彼のメディア論は多岐に渡りますが、ここでは彼の身体論を取り上げます。

 

彼は、「メディアは人類の身体、精神の拡張物である」と主張しました。ここでいうメディアとは、テレビやPCのみならず、衣服や自動車、住居まで広く「媒介するもの」全般を指す概念として用いられています。

 

例えば、テレビは人間の視覚の拡張として、ラジオは聴覚の、自動車は足の、衣服は皮膚の拡張として捉えるということです。

 

彼の論理に従えば、「化粧」は皮膚の拡張といえます。もとからある下地に、ファンデーションというメディアを、チークというメディアを、現代女性は身体に纏っているのです。

 

しかし、上述のとおり、テクノロジーは我々にさらなる「化粧」を施すことを可能としています。

それはPhotoshopInstagramという新たな化粧、換言すれば新たな皮膚の拡張の手法であり、また、新たに賞賛を得るプラットフォームでもあったのです。

 

彼女たちは現実社会というファンデーションの上に、GUIによる手軽で高度なデジタル化粧を実装することに成功しています。

皮膚の拡張は現実空間を越境し、デジタルな表象として美を獲得し、賞賛の的となる...。

この現代SNSにおける承認欲求の狂騒曲を、アイロニカルに語ることはそれほど難しいことではありません。

 

事実、メディアアートの世界では、皮肉を利かせた作品は多数見受けられます。

例としては、リチャード・プリンスのInstagramのセルフィーを似せた「ニュー・ポートレイト」、エキソニモの「ライブ・ストリーム」などがあります。

詳しい内容はここでは割愛しますが、いずれも、他者からの認証の証である賞賛のコメントやlike(いいね!)を題材とするものです。

 

 

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※筆者撮影

『ハローワールド ポスト・ヒューマン時代に向けて』水戸芸術館現代美術ギャラリー

エキソニモ左から<<キス、または二台のモニタ>><<ライブ・ストリーム>>

 

 

 デジタルな化粧はセレブから一般大衆にまで幅広く普及し、人々はこぞってlikeボタンという媒介を通して承認欲求を満たしていく。

 

では、これは我々人類にとって全く新しい出来事なのでしょうか。

 

たしかに、このような身体の改造ともいうべき美や権威の獲得方法は、前世紀末から今世紀になり始まった特殊な出来事のように思えます。

 

しかし、次に生じた出来事を身体論の延長線に置いた場合、彼女たちデジタルネイティブの熱狂とも呼ぶべき自己愛の露悪的な表出も些細なことに見えてしまうのです。

 

 

 3.「化粧」から「転生」へー身体は転生する

 現代人は身体の拡張の旅をやめようとしています。

 

確かにPhotoshopは我々の身体をより美しく際立たせ、Instagramはそれを賞賛するためのプラットフォームを提供しました。

 

以前若い女性の間で流行したスノーは、人々のコンプレックスを愛らしい動物のフィルターで覆い隠してくれるのです。

 

しかし、これらはあくまで身体の拡張を続けていただけでありました。

 

向社会的な身体の獲得という世界中の人々の関心のために、テクノロジーはひたすら彼女らの身体を改造することを目的としていたように見えます。

 

これは紛れもなく「化粧」なのです。アボリジニがボディペイントを施すことと、デート前に女性が入念にメイクアップすることと、できあがった写真の表情をより望ましいものに加工することに、どのような意味的差異があるというのでしょうか。

 

今我々の目前で起こっていることは、このような身体の史観から逸脱する全く新しい事象なのです。

 

それは「転生」とでも呼ぶべき営みでした。

 

2017年12月頃、突如として流行となり、その後現在まで爆発的に増え続けている存在。VTuber(Virtual Youtuber)です。

 

 

4.   欲望への「接近」から「完成」へ

生まれ持った身体という鎧(または呪い)は、我々をより良い身体の獲得という欲望に向けてつき動かす衝動を与えるには充分でした。

 

人々はいつでもコンプレックスを隠しとうすため、現代の魔術を使います。デジタルネイティブにとっては、それはより簡単なことでした。

 

しかしながら、そこにはどうしても自らの身体の面影が残るものです。否、それがなければ(自分の身体がそれとわからなければ)、もはや自分の身体などないのと同じなのです。

 

人々はいつも、自らの身体という鎧を恨めしく思いながらも、それを自分自身と認めることでしか身体への欲望を満たすことはできないという二重性の中に身を置いていたのでした。

 

VTuberはこの点が大きく異なっています。正確に言えば、VTuberという「メディアが、というべきでしょうか。

 

画面越しに移る彼女たちの身体は、もはや生身の身体の拡張ではありません。(夢のない言い方ですが)彼女たちの「生身の」身体は画面越しの表象とは別のどこかで動作し、それを3Dモデルが媒介することで彼女たちの身体性が立ち現れるのです。

 

これは紛れもなく「転生」と言えるでしょう。

人々はこれまでの生身の身体を拡張するという手法をやめ、全く新しい身体を手に入れたのです。

そしてこの新しい容器にはそれぞれの個性あるオーナーの声や性格によって、「キャラクター」として魂が吹き込まれ、人々の前に現れます。 

 

この「化粧」と「転生」の比較は、身体への欲望の「接近」と「完成」と言い換えることもできます。

「化粧」は生身の身体の拡張であり、より美しいものへと進む人類の欲望に「接近」する行為と言えます。

 

「もっとこうなりたい」という尽きることのない欲望に向かい、自分の身体をその理想に向かって少しずつ改変していくのです。

これは地道な作業ですが、この作業を経て人は自らの欲望に「接近」していきます。

 

しかし、これは同時に「完成」を絶対に約束されない行為でもあります。

なぜなら、「あのモデルさんのようになりたい」と思っても、人は生まれ持った身体という鎧からは解放されないからです。

どんなに美しい化粧をしても、どんなに高価な服を着ても、それはどこまでいっても「接近」であり、「未完成」であることを約束されているのです。

 

一方、VTuberになるということ、つまり「転生」は欲望の「完成」を実現できる行為です。

 なぜなら人々は生まれ持った自らの身体を葬り去り、新たな完璧な身体を手に入れることが可能となりつつあるからです。

これからはもう、鏡に映る醜い自分の姿をから出発する必要はないのです。

初めから自らの欲望に忠実な完璧な身体として、人々に表象されることが可能になったのですから。

 

 

 

www.youtube.com

 ※3Dモデリング等の技術面が整えば、モデルは本人の欲望にとっての「完成形」となって人々の前に現れる

(富士葵「羽化」)

 

5.表象からの撤退ー「現象」としてのVTuber

 

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※筆者撮影

『ハローワールド ポスト・ヒューマン時代に向けて』水戸芸術館現代美術ギャラリー

ヒト・シュタイエル<<How Not to Be Seen : A Fucking Dadactic Educational .MOV File>>

 

ヒト・シュタイエルというメディアアーティスト、批評家をご存知の方は少ないでしょう。

彼女は 「地球のスパムメール ー表象からの撤退」(『美術手帳』2015年6月号「特集 ポストインターネット」より)というエッセイの中で、監視社会における監視カメラやGPS、悪意に満ちたゴシップ、人を嘲笑するテレビ等が、人々自身を視覚表象から撤退させるという帰結をもたらしたと論じています。

 

個人のプライバシーに関する危機感が日に日に強まる一方で、情報社会におけるこれら敵意や悪意に満ちた匿名の群衆による監視は、より洗練され、人々は表象の世界から撤退せざるを得なくなるのです。

視覚表象の天国であるこのインターネット空間でさえも。

 

VTuberはこのような表象からの撤退の動きと符合しているように見えます。確かに、この国においても一般的なYoutuber(いわゆる顔出しYoutuber)は増え続けていますが、人気になれば悪意に満ちたゴシップと監視の標的となります。

 

VTuberはヴァーチャルな存在だからこそ、生身の身体の「代理人」として人々の前に表象され、このような敵意と悪意を回避しているように見えます。

 

これが現代日本における人々の「表象からの撤退」の最前線なのです。

新たな表象の誕生の裏側には、人々の表象からの撤退というもう一つの運動が働いているのです。

 

 

※ヒト・シュタイエルの理論に関しては、今後もお話ししてきたいと思っています。 

 

6.21世紀の身体性ー身体と自己の断絶と「再」接続

これまで、「身体性」をキーワードに人々の欲望の達成の在り方を見てきました。

 

今までの人類はマクルーハンが言うところの「身体の拡張」を行ってきたに過ぎなかったこと、そしてこれがVTuberという存在の出現によって全く新しい動きとして読み取ることができること。

 

 それでは、今後この動きはどのように人々に受容されるのでしょうか。

 

このVTuberという表象は、今後ますます人々の間で利用されることでしょう。

 

事実、カスタムキャスト等のサービスでは、すでにスマートフォンで自らのキャラクターを簡単に作成することができ、わざわざ初めからモデリングを行うことなく、簡単にキャラクターを生成できます。

customcast.jp

 

これらのサービスは、人々の承認欲求、ともすれば経済的な欲求まで満たしてくれるツールとして、今後ますます普及することは間違いありません。

 

彼女たちのヴァーチャルな表象は、生身の身体から切り離され、身体と自己が切り離された状態でヴァーチャル空間を漂っています。

 

そこで人気者になれば、多数の社会的・経済的評価(Youtubeではgoodやスーパーチャットなど)が付与され、彼女たちの自己はヴァーチャルな身体を媒介して満たされるのです。

 

そして配信が終われば、彼女たちの自己は再び実世界の身体に帰属し、いつもどおりの生活に戻ってゆく。

 

ここには身体と自己の断絶と再接続のループがあります。

 

21世紀の身体性は、今までよりもっと洗練された姿で私たちの前に現れるのです。